2002年9月9日、星野伸之投手が今季限りでの現役引退を表明した。投球形態を考えると年齢による衰えはなさそうだと思われ、少なくとも40歳まではやってくれると信じていたが、残念ながら病気(ひん脈)ということで無念の引退となった。
星野といえば90キロ代のカーブと130キロにも満たないストレートを速く見せる(165キロに見えたと言ったのはローズ)ことで打者を打ち取るというイメージがあり、確かにそれは外れてはいないのだが、実際にはそれらの球種だけではなくフォークボールとシュートを投げ分けて打者を幻惑するのが持ち味であった。また、独特の手首の使い方で球の出所が見にくいというのも特色で、実際あの投げ方を真似しようとしても(右と左の違いは度外視して)まずできないものであった。
さてその星野であるが、阪急ブレーブスに84年に入団。そういう意味では阪急ブレーブスが優勝した時に現役であった最後の選手ということになるが、当時は18歳でありまた一軍登板もなかったことからビールかけには参加していなかったであろう。ところが翌年、同期で期待された野中が伸び悩む中、ウエスタンで10何三振という実績をひっさげ一軍に昇格。当時の印象としてはヒョロヒョロで三振も良く取るが四球も出すという感じで、まさかここまでの投手になろうとは思わなかったところである。それでも初勝利は当時首位独走の西武からで、途中登板ながら2桁三振を奪い、阪急ファンにとっても一服の清涼剤となったのではないかと思われる(私も関テレで見ていた記憶がある)。
青波になってからも96年の開幕から2試合連続完封(両方とも1−0)など私が印象に残っている投球はいくつもあるのだが、阪急時代で言えば87年である。当時私は浪人してしまいヒマをもてあまし西宮に行きまくっているのだが、その中で星野登板で印象に残るのが次の2試合。星野がどういう投球をしたか覚えていないのだが(いつものヒョロヒョロ投球で好投した、というくらい)、新聞の縮刷版を見て掘り起こして見ました。
星野伸之 名勝負゜87 (その1) ゜87.4.14 西武1回戦(西宮) 開幕の南海3連戦をブーマーの同点満塁ホームランや松永の逆転サヨナラタイムリー(伏線として英司の勝ち越しタイムリー)などで2勝1分けで乗りきった阪急は、前年の覇者西武を迎えての3連戦。南海戦は佐藤・山田のあと当時まだ信頼感の薄かった古溝が先発、星野は宿敵西武に満を持して登板してきたのである。一方の西武はこれもここまで待っていた感のあるナベQ。 試合は、いきなり松永の一発(通算100号)で先制、その後も藤田の一発などで加点し7−0。投げては対星野用に「1番西岡、2番広橋」という打線を組んできた西武相手に、星野が好投。3安打9奪三振であっけなく完封勝利を収めたのである。星野は、この次の試合でも完封し、前半戦だけで全球団から完封勝利を挙げるという大記録を達成、1年を通じては初の2桁勝利を挙げ、その後11年連続で2桁勝利を挙げることになる。ある意味では星野が大投手への第1歩となった試合であったと言えよう。 |
星野伸之 名勝負゜87 (その2) ゜87.6.12 日本ハム7回戦(西宮) 87年は山沖の活躍もあり前半戦は首位を走ったのだが、試合として印象的なのがこの試合。勝った方が首位という天王山で、ハムの先発はようやく注目されかけていた新人の西崎。星野は、昔も今も比較的ハムを得意としていたのだが、当時唯一絶対の苦手選手であったブリューワにストレートを狙い撃ちされ2本塁打を浴びてしまうが、それ以外はほぼ完璧なピッチングで11三振(毎回奪三振)を奪った。西崎も8回途中まで11奪三振で好投、しかし9回表まで2−4でリードされていた阪急打線が西崎から代った柴田に襲いかかり、小林晋の同点タイムリーの後、熊野が右中間へサヨナラ3ラン。ふわーっとあがった打球は今も忘れられないところである。 スコアとしては合計で11点入っているが、実際は両先発投手が二桁奪三振を取っているなど、私が見た数多くの試合の中でも1.2を争う投手戦のイメージが強い。また、自分の予想した通り星野がブリューワだけに打たれたり、西崎という楽しみな新人の好投、当時他球団の投手として最も応援していた柴田が打たれたりで、未だに心に残っている試合の1つである(余談だが、この試合で小林がタイムリーのあと盗塁しているのがわかったが、そのシーンも頭に浮かんできた)。 |