ロッテオリオンズ1984 〜ロッテが一番優勝に近かった年 だった

※この文書は2000年くらいに書いたもので、HP破壊後しばらく眠っていたものです。

ロッテときいて皆さんは何を思い浮かべるだろうか。最近のマリーンズファンなら、あの熱狂的な応援だろうし、その前なら川崎劇場や10.19だろうし、選手では落合の猛打や村田のマサカリ投法ということになろう。それ以前は皆さん勝手に想像していただきたいが。このチーム、最近20年(81年から00年)に限定すると、81年に前期優勝があるものの年間では3位であり、以降は2着が3回、しかも1位に大きく離されたものばかりということで、パリーグ最弱と言われても仕方がない。

そんなロッテであるが、阪急が最後に優勝した1984年は稲尾新監督のもと前年の最下位から2位に入る健闘をみせた。まあ1位とは8.5ゲームもあったのだが、それでもこの年のロッテは阪急にとっても、また私にとっても色々印象深い。その足跡を振り返りたい。


1983年のロッテは、落合が首位打者を取る活躍を見せたものの村田が戦線離脱するなど投手力が低迷、首位西武から39.5ゲーム差の最下位に終わった。特に西武には5勝しかできず、力の差は歴然としていた。この年のオフ、やや暗いイメージがありかつ選手からの信頼も失っていた山本一義監督から、今後の福岡移転も見据えて稲尾和久監督が就任、そして読売から、力はレギュラー級と言われつつも王や中畑の陰に隠れ出番に恵まれなかった山本功児を獲得、その他にも右田や土屋などが知らない間に加入していた。


山本功児の加入はある意味諸刃の剣で、彼は外野もできなくはなかったが一塁の守備は大変うまく、それを買われての入団という意味合いもあった。また、内野では西村の成長もあり、それまでセカンドであった落合をサード、そして長年ロッテのサードを守り続けた有藤をライトに移すことになった。その結果、山本、西村、落合にショートの水上という、リーグでも有数の内野陣が出来上がったが、有藤の守備は正直見られたものではなく、ミスターロッテと言われたころの面影はもうなかった。とはいえ外野も、不動のトップバッター庄司に加え、北海道からやってきた新鋭の高沢が成長し、それほど問題ではなかった。


さて開幕戦は西宮で阪急戦。ロッテは水谷が先発したものの打ち込まれ早々にKO。土屋が水谷にデッドボールをぶっつけただけの試合であった。次の試合も中継ぎで出てきた右田が山森の満塁ホームランを打たれ(余談だが、右田はその前年も開幕第2戦で駒田に満塁ホームランを打たれている)、3試合目は今井に完封負け、3タテを食らってしまった。しかし、ロッテは次の西武戦に備えシャーリーと深沢を温存していたため、負け越しくらいは計算していたのではあるまいか。このとき2戦目に先発したのが当時2年目、あまり実績のなかった石川で、彼はそのシーズン大活躍するのである。


5月に入り、私は臨時急行銀河で生まれて3回目の東京に向かい、東京タワーに上った後川崎球場でのロッテー阪急戦を見に行った。川崎駅で降りて歩いていると、今もあるロッテリアで野球のタダ券を、しかも1人に何枚も配っている。私は高校生であったが弟の名で阪急ブレーブス子供会に入っており外野ならタダで入れたのだが、タダ券で内野に入れるのならそれも良かろうと、しかしGWの真中なのにタダ券配るとはロッテはよっぽど人気ないんやなと思いつつ球場に着くと何と内野は満席!仕方なく外野に向かいレフト側で観戦した。試合はバンプが私の見ている前のフェンスに直撃する2塁打を放つなど活躍、最後は山沖が〆て阪急の勝利。これが私の川崎球場初体験であった。その後も阪急身売りを知ったのはここだった(近鉄応援してました!)し、2000年のオープン戦のロッテ花火大会も見るなど、割と縁の深かった球場である。


川崎球場の思い出話はさておき、阪急は夏に向けて独走を始めた。一方で春先好調だった近鉄はその主軸だったマネーとデュランが相次いで帰国し失速、南海は若手投手の台頭もあったが河埜の全力疾走くらいしか話題にならず、日ハムは植村新監督のスパルタ采配が裏目に出て最下位を独走、そして前年ぶっちぎった西武は田淵・山崎などのベテランが急激に衰え、また新加入した江夏も広岡監督と折り合わず低迷し、気がつけばロッテが2位に上がってきていたのだ。


この年のロッテの戦力を簡単に振り返ると、投手では開幕投手の水谷、2年目で先発として期待されたシャーリーは低迷したが、前年2桁勝利を挙げた深沢、2年目の石川がともに15勝、特に石川は勝率1位も獲得した。これにベテランの仁科と合わせて3本柱となった。その他では他球団からの移籍組、右田と西井が谷間先発、中継ぎ、抑えとそれぞれの持ち場で頑張った。そして8月にひっそりと村田兆治が1イニングだけ登板し、その翌年の大復活へとつながっていくのだ。一方野手は前述した通りで、3割打者が高沢、リー、落合、山本と4人並び、下位でも水上、袴田、西村と曲者が並び、正直有藤が1番安全パイの打線であった。控えでも内野で井上、佐藤健一、外野では芦岡と新人の高橋といった顔ぶれが並び、充実していたといえるだろう。


阪急は山田の怪我もあってやや勝ち星が伸びなくなり、ロッテは夏ごろには阪急に5ゲーム差まで追い詰めた。当時は「5ゲーム差以内であればプレーオフ」という訳のわからないルールがあったので5ゲームはセイフティリードとは言えなかった。ロッテも、札幌で高沢が骨折し今季絶望となっていたのだが、それを他の選手が良く埋めたといえるだろう。そんな中、夏の終わりに川崎でロッテー阪急3連戦があった。ロッテはその1・2戦を勝ち、もう1つ勝てば本当に分からなくなる第3戦を迎えた。当時珍しくサンテレビでも中継をやっており、阪急は当時絶好調とはいえ中3日(しかもその前も中3日)の今井であり、これは阪急不利かと思ったが今井にやられてしまった。阪急ファンとしてはこれで優勝を確信した一戦であったし、ロッテとしては阪急を捉える絶好のチャンスを逃してしまったわけだ。


しかしロッテはまだあきらめなかった。9月になり、阪急との最後の2連戦に連勝すべく、西宮に乗りこんでくるのだ。この試合は一戦目が中止となり、翌日にダブルヘッダーで行われた。その第一試合は点の取り合いとなる好ゲームとなったが、勝たなければならないロッテは9回表に勝ち越せず勝ちはなくなってしまった。その裏、松永が右中間へ大きな当たり。センターの高橋がもたつく間に松永がホームに戻ってしまいさよならランニングホーマー。これで完全に息の根を止められた。続く第二試合は山田をメッタ打ちにし少しは溜飲が下がったかもしれないがもう焼け石に水であった。結局その一週間後、ロッテが負けたことにより阪急の優勝が決まってしまうのであった。


俺が初めて胴上げしたいと思ったと落合に言わしめた稲尾監督であったが、翌年も2位にはなるものの10ゲーム以上離され、それ以降は低迷する。千葉に移転し、95年にはバレンタイン監督のもと2位に入るが、これも10ゲーム差以上あった。という意味では、81年のプレーオフ出場以降、ロッテにとってはこの年が最も優勝に近かったと言えるだろう。今の首脳陣を見ると、当時5番打者だった山本功児が監督となり、袴田、高沢、西村、佐藤健一、そして今年から仁科も加わり、優勝を目指して指導している。今のロッテファンであれば、賛否はどうあれ優勝争いをすれば当時と違って大きな力となってくれるはず。今年こそ少なくとも「優勝争い」をして欲しい。


基本スタメン
氏名打率
庄司 智久.2561142
9
高沢 秀昭.317114711
Dレロン・リー.3093188
5
落合 博満.3143294
8
山本 功児.3011066
4
有藤 道世.2441158
6
水上 善雄.254103313
袴田 英利.259549
1
西村 徳文.28552925

控え野手
氏名打率
福島 知春.167 0 0 0
佐藤 健一.211
5
21
0
井上 洋一.252
4
16
2
斉藤  巧.197
3
15
0
芦岡 利明.243
7
30
2
高橋 忠一.280
2
10
3
剱持 貴寛.217
0
5
3
武藤 一邦.235
1
3
0

投手陣
氏名防御率
石川  賢15403.79
深沢 恵雄15803.74
仁科 時成131103.71
西井 哲夫6383.50
右田 一彦6525.27
水谷 則博51105.09
梅沢 義勝1234.10
土屋 正勝0315.31

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