西宮球場サヨナラセレモニー(2003.3.21)


それは3月20日の朝のことであった。
私は、翌日からの3連休のオープン戦観戦に思いを馳せつつ、いつものように通勤途上のJR津田沼駅での電車の待ち時間に掲示板の書き込みチェックをしていた。普通の日には新たな書き込みがないことが多いのだが、その日は1件の書き込みが目に付いた。

3月21日、阪急西宮スタジアムさよならセレモニー開催 投稿者:U谷  投稿日: 3月20日(木)06時59分57秒 

20日付の朝日新聞(大阪)の阪神地域面の記事によりますと、
『阪急西宮スタジアムさよならセレモニー』が21日午後4時より午後6時まで開催される模様です。
これまでの名場面を特設ディスプレーにて紹介、福本豊氏らのトーク、阪急商業学園のマーチングパレード、西宮少年合唱団の合唱、
さらにスタジアム正面玄関前広場では、阪急ブレーブスこども会が24年前に埋めたタイムカプセルを開封するそうです。
入場無料のこのイベント、ぜひ参加したいですね。

この書き込みに、いつもは通勤電車は殆ど眠って過ごす私も興奮のあまり眠ることができず、会社に着いてからも西宮に行くべきかどうか、迷いつづけるのであった。急に言われても明日の話であり、またその翌週に大阪ドームと北神戸あじさいスタジアムのそれぞれの開幕戦に行く予定で金曜日(28日)の休暇も決定していることから、まずは残された青春18きっぷ2枚の有効活用も視野に入れながらどっちも行くことを前提に考え続けた。しかし、金銭的な余裕のなさと、体力的にきつそうなことからどちらかにしか行けないということを決め、21日の朝4時前に起きることができれば西宮に向かおうと最終的に決めたのは20日の夜12時前であった。
とはいいながら翌日は結局4時前にきっちり目がさめ、青春18きっぷにて大阪に向かうことになった。前回の名古屋は6時間であったが、今回は9時間である。


大阪駅までは何だかんだであっという間に到着し、阪急電車に乗り換えるべく梅田駅に向かう。駅にはセレモニーについて何か掲示でもあるかと思ったがそのようなものは一切なかった。何せ上記掲示板の書き込みとそれに基づいて梅田駅であるということを確認をしたというなかケン氏の書き込みだけしか情報がないままここまで来てしまったわけで、さすがに非常に不安を感じつつ電車に乗り込んだ。そして西宮北口の駅についてもそれらしき掲示はなく、また球場方面への改札口に向かう人たちもまばらであった。西宮球場へ歩く道も、本来であれば「もうここを歩くことはないのか」と感傷にひたりたいところだがそれよりもまだまだ不安が大きいままであった。


結局球場には3時20分頃に到着。セレモニー開始まであと40分である。知っている人はまだいなかったがそれでも人は数十人程度おり、また何らかのセレモニーをやりそうな雰囲気だけはあったので、少しほっとした。しかししばらくするとその数十人の一派が一列にならんで球場正面入り口に入って行くのである。よく見ると阪急ブレーブスファンとは思えない中学高校生のようである。恐らく少年合唱団のメンバーであることは容易に察しがついたが、彼らがいなくなると本当に数人程度しかいなくなってしまった。おいおい、と思っているとようやく知った顔が次々やってきた。殆どの人が書き込みを見て急遽やってきたとのことで、私と同じように関東地区から参戦している人もいた。久しぶりの人もいて色んな阪急話をしているうちにセレモニーの開始時刻となった。


ちなみにセレモニーの司会は関西テレビの出野氏であった。かつては阪急戦を中心に野球実況やプロ野球ニュースに出ていたのだが、あるとき突然画面に出なくなり、どうしたのだろうと思っていたら数年後ニュースでシンガポールだかフィリピンだかの特派員で出演されていたのには大変驚いてしまった。それ以来なので10数年ぶりに見たことになるのだが、頭にも白いものが目立ち、最初は本人とは分からなかったところだ(とはいえ多分関西テレビのベテランの方が司会をされるとは思っていたのですぐに当人と分かったのだが)。


セレモニーの最初は阪急ブレーブスこども会30年記念碑の下に眠るタイムカプセルの開封であった。これは、1979年の7月に埋めたとのことで、当時会員であったアーサー凹氏(以下凹)の作文が入っているのではないかということに期待が集まる。碑には白い布がタスキがけされており、若干物悲しい雰囲気がある。宮司さんのお祓いのあと、その碑がクレーンで持ち上げられ、カプセルがドリルでこじ開けられた、すると、中に入っていたのは当時の子供会名簿と当時の阪急グッズの数々であり、残念ながら凹の渾身?の作文はなさそうである。なお、凹と同じく会員であった現スワローズの古田捕手よりコメントが寄せられ「こんなのがあるとは知りませんでした。」と思いっきりボケをかましてくれた(でもオープン戦で西宮球場で試合をしたのも思い出とも語っている)。


その開封状況を見ていたあるとき、となりにいた凹が「あれ団長とちゃう?」と、近くにいた小柄な人を指差し話かけてきたのである。その人を良く見ると髪は白くなっていたが紛れもなくあの『今坂団長』である。ちょうど皆が集まった頃に「今日は団長にきて欲しいな」とか「団長来たら泣くで」みたいな話もしていたところであったのだ。私は、どうすれば良いのだろううか。全く分からないままセレモニーは進んでいった。


さてカプセルの中身は一部だけではあったが実際に手に取ることもできたので、我々は名簿で凹の名前があるかどうか、名簿を1枚1枚めくりはじめてしまった。一応住所ごとに整理されており、凹の住んでいる豊中市のものをめくっていったのだが残念ながら見つけることはできなかった。なおこのとき、凹など何人かの方々が新聞の取材を受けていたようである。しかし先ほど撤去されたこども会の碑やカプセルの中身はいったいどうするのだろうか?というのは気がかりだ(左がクレーンで吊り上げられる準備中のこども会碑、右がカプセルの中身)。


その後は球場内でのセレモニーということで、我々は当時の指定席の入り口(駅から来る道をまっすぐきたところにある入り口)から中に入っていった。すると、今までどこに眠っていたのかわからないデッドストックもののグッズが入場の際に配られた。内容は帽子、旗、紙袋にファンクラブの記念品であったポーチなどであり、これはブレーブス時代に色んなグッズをただで配っていた当時と一緒である。しかも、帽子などは何個でも持っていって良いような状態で、私は既に持っているので2個しか?持っていかなかったが、7つも8つも持っていっていた人もいたようだ。


グランドではタイムカプセルの開封時にもいた宮司さんがお祓いをしていた。その後は球場の名場面紹介ということで、まずは阪急ブレーブス編。アストロビジョンの撤去後センター後方に登場した「オーロラビジョン(出野氏談)」に、小林一三翁の球場建設指令からリーグ優勝、日本一までの画像が一通り登場した。5分程度しかないのはやや物足りない気がしたが、画像の終了後は福本豊氏が登場しいろいろ思い出を語っていくことに。福本氏の話の中では、盗塁よりも守備に関する話が多く、「センターのフェンスから定位置まではちょうど16歩」「センターの守備だとイチローに勝っている」という非常にプロ意識の高い言葉が実に印象に残っている。また最後に、最大の思い出はという質問に対しては「オールスターでホームランをもぎ取ったプレー。あれで福本の名前を皆に知ってもらえるようになった」とのことである。私が熱心に見始めた頃は福本の守備はやや肩が衰えてきていたのだが、やはり盗塁の福本と並び『守備の福本』であったということを激しく痛感したところである(左は思い出を語る福本氏と聞き手の出野氏 つねよ氏提供)。


その後は市民イベントの場であったということで西宮市長が登場。「阪急ファンで福本さんのプレーも良く見ました」と言ったところまでは良かったが、出野さんの「その他ではどんな選手が?」との質問には答えられないという失態を見せ付けてしまった(『山田』という名前なのに)。その次に出てきたアメフト協会会長が大橋の名前まで出したのとは大違いである。


というわけで楽団や合唱隊もいながら「阪急ブレーブスの歌」の演奏・合唱がないなど、西宮球場は必ずしも阪急ブレーブスのものだけではなかったのだということを思いちょっと寂しさも感じていたのだが、最後に小林公平阪急電鉄会長にとどめをさされてしまうとは思っても見なかった。彼は阪急ブレーブス最後のオーナーであり、ぶっちゃけて言えば身売りの当事者である。その彼がスイッチを押し、バックスクリーンにあった「さよなら阪急西宮スタジアム」の仕掛け花火が点火するという展開に、「駄目押しホームランを打たれた山沖」の心境になってしまった。その後打ち上げ花火が延々と打ちあがりセレモニーは終了した(とどめをさされたの図 は上右)。


セレモニー後は球場内で名残惜しく写真を撮ったりしていたが、気になるのは今坂団長である。団長はずっと人と話をしながらセレモニーを眺めていたようだが、終わるともう帰ってしまうような雰囲気である。どうしようかと思っていたらまたしても新聞から取材を受けていた凹が「それだったらもっと相応しい人がいる」ということで団長を紹介し、新聞が団長に色々話を聞くことになった。我々は団長がスタンド下で取材を受けている間に外に出て、出待ちよろしく団長を待ち構えることにした。


取材が終わり外に出てきた団長に、写真等をお願いすると半ば照れながらもOKして下さり、阪急ブレーブスの旗のもと、十数人の我々は代わる代わるシャッターを切りまくるという恐ろしい展開になってしまった。そんな中でも、団長もH帽を被って対応して下さった。写真の後はあつかましくサインをもらったりもしてしまった。こうして10分程度団長と色々コミュニケーションをしたあと、団長が「さぁ、いくでぇ」とあの懐かしの声を出して下さった。十何年ぶりかに聞くあの声は、全く変わっていなかった。オリックスになってからは表舞台に出なくなり、失礼ながら亡くなったという噂もあった今坂団長のあの声がまた聞けるとは、いやー、嬉しかったな!(右は団長のサイン。左は現在の団長(つねよさん提供)。


団長が去った後は皆で阪急ブレーブスの歌を3番まで合唱して解散。その後は何人かは駅前の居酒屋「ふじや」に移動して盛り上がったらしい。

翌日、朝起きると実家で取っている神戸新聞社会面に小さくではあったが記事が載っており、写真にはタイムカプセル開封を覗き込む私がほんの少々だけ載っていた。また阪神版では朝日新聞が最も大きく、今坂団長の「ブレーブスの選手はみんな好きだった。球場がなくなることになり、人生が終わった気さえする」というコメントが掲載。また「((カプセルの中身の)山口高志投手の生写真に歓声をあげる人も」というのは、多分某さんのことであろう。画像系では関西テレビのニュースでも取り上げられたそうです。


朝日新聞によれば「かつての阪急ファンや関係者300人」が集まったこのイベント。聞くことろによれば「急に決まったので告知ができなかった」と阪急側は言っているらしいが、会長や社長、西宮市長や福本さんまで呼んでいるイベントが昨日今日決まるわけがなく、ちょっと阪急側に対して不信感を抱いてしまった。こんな急では行けない人も多数いるはずであり、しかもU谷さんのファインプレーとも言えるあの書き込みがなければもっと参加者が少なかったわけである。今後、阪急ファンが集まることのできるイベントがそうそう期待できないということを考えると、それだけは本当に残念である。

(当日のグラウンドとスタンド)

2003年も阪急ブレーブスに戻る