藤井康雄選手引退(2002.9.25)

2002年9月25日、藤井康雄選手が今季限りでの現役引退を表明した。記者会見では、「体力、気力、その部分に関してはまだまだやれるという気持ちはあったが、年々ちょっとずつファンに対して失望させるシーンが多くなってきたというのが、一番自分の中で許せなかった。やっぱりいいホームランを見せて楽しんでもらえる、喜んでもらえるっていうプレーが今年に限って言えばなかった。それが本当に大きな要因である」とのこと。

康雄さん(あえてこう書くが)といえばやはり美しい打法からの美しい弾道を描くホームランである。古今東西数多くホームランバッターはいるが、あんなに「美しい」という言葉がはまってしまうのはいないと個人的には思っている。会見では、「ファンの方々が僕のホームランで楽しそうな顔をしてくれる」と語っていたが、確かに康雄さんのホームランを打つと「いいもの見たなぁ」という気にさせられるのである。

その康雄さんは、高校卒業後社会人野球のプリンスホテルに入社(因みにこのとき背番号が8で、その前に8を付けていたのが石毛であり、その後に付けたのが石井浩郎という話を聞いたのだが本当か?)、しばらくして長距離砲として頭角をあらわし、プリンスホテルということで西武入団が確実視されるまでになった。だが西武は清原をドラフトにおいて1/6の確率で抽選で引き当ててしまい、行き場を失った康雄さんは、それならと他球団でのプロ入りを決意したのであった。もし西武に入団していたらと思うとぞっとするところだ。恐らく私からは秋山並に野次られていたに違いない。
というわけで87年にドラフト4位で阪急ブレーブスに入団するのだが、「ドラフト4位という順位は正直悔しかった。」と後に語っており(91年青波イヤーブック参照)、事実当時のドラフト翌日の日刊スポーツにも「入団微妙」と書かれていたのを覚えている。しかし今、そのときの1位の高木・3位の中嶋が阪急ブレーブスを知る最後の現役選手となってしまったということを考えると、当時のスカウトは「15年以上もプロ野球選手として活躍できる彼らを康雄さんより上の順位で取った」ということとなりかなりの慧眼であるといえよう。また2位の山越、前年4位ながら1年入団が遅れた本西とは全日本のメンバーとして活躍(当時の打順は1番本西、3番山越、4番康雄さん)した間柄で、入団時には「全日本トリオ」としてちょっとした話題になった。

さてルーキーシーズン、指名順位は低かったがそこは全日本の4番、OP戦で結果を出し、好選手ひしめく阪急野手陣での競争の中開幕一軍を勝ち取った(山越・本西も)。
初出場は開幕戦である4月10日の南海戦、門田の3ランなどで2−6の劣勢の中、9回裏の先頭打者藤田の代打として登場。いきなり好投手井上から右中間に2ベースを放つのである。このときは今では打球がどっちに飛んでいったかは忘れているのだが、ホームランを打ったときのようなスイングと打球は覚えている。いいバッターが入ったなぁと思ったものである。また試合は良く知られているようにその後ブーマーの同点満塁ホームランが出たわけで、このころから満塁ホームランに縁があったとも言える。結局1年目はホームランは2本(因みに打たれたのは南海の山内孝と和)しかなかったが主として代打の切り札として活躍、チャンスに強いバッティングで非常に将来に期待を抱かせた。当時のサンテレビボックス席でも、辛口の森本潔や西沢アナがべた褒めであったくらいだ(本西には「まだまだ」、山越はダメ出しされていた)。
2年目になるといよいよ本領を発揮した。まずジュニアオールスターではウエスタンの4番として出場、格の違いを見せ付けホームランを打ちMVPを獲得、シーズンではホームラン20本を放ち、ブーマーの故障もあって終盤戦では4番打者として登場することとなった。結局この年は阪急ブレーブス最後の年となるのだが、山田が完投勝ちした最終試合でも4番でスタメン出場している(蛇足であるが、最終回である8回裏の最後の打者で、ゲッツーを打っている)。

オリックスブレーブスになってからは(自分がその中にいながら)「見てて楽しかった」というブルーサンダー打線の一角としてホームランを量産。3年目30本、4年目には37本のホームランを放つ。私はややオリックスから距離を置きどちらかといえば近鉄を応援するようになっていたのだが、大学の友人からは「藤井が6番を打つ打線は怖いよな」といわれると若干優越感に浸れたものである。

康雄さんといえば単なるホームラン打者ではなく、劇的なホームランが多かったのも魅力の1つである。。パリーグ記録である満塁ホームラン14本、サヨナラホームランも7本(ダブり1本)を数える(現在中村ノリが満塁12本まで打っているのだが)。ことに91年5月3日、武田から打った逆転サヨナラホームランとその後のヒーローインタビュー。神戸に移り、監督も土井に代わり、明らかにチーム全体が戸惑い最下位に低迷する中、「オリックスはこんな弱いチームではありません!」と語った康雄さんの姿を見て、オリックスファン引退をとどまった人も何人もいるはずである(競馬ライターの須田鷹雄氏はそうらしい)。今それ以上のピンチなのに、ここまで思っている選手はどれだけいるだろうか?また2年後の5月3日にもサヨナラホームラン。この一発で野田が調子付き、最多勝を取るまでになった(と引退試合のテレビ解説で話していた)のである。そして14本目の満塁ホームラン(かつ7本目のサヨナラホームラン)。今では難航不落のストッパーになった小林雅英からの劇的な一発は、「代打逆転満塁サヨナラつり銭なしホームラン」という、日本野球史上たった3本しか出ていない貴重なものとなった(しかし2本目がその数日前に出た北川で、打たれたのは青波の大久保)。
ホームラン以外でも、95年の優勝時にはウイニングボールをつかんだ姿や、96年の日本一では選手会長としてチームをまとめ、ビールかけでの乾杯の音頭でのえらいはしゃぎようは忘れられない。
また、守備面でも、イチローや本西、山森など名手がゴロゴロしていた球団にいたため目立たなかったが、強肩ではないが正確な送球でランナーを刺したのをしばしば目撃したし、引退試合にビジョンでは難しい打球をキャッチする康雄さんの画像が流れるなど、意外に名手だったことも判明した(今のイクローや相川など論外である)。また走塁面では・・・89年イヤーブックに「チーム一の4本の三塁打の脚にも注目したい」ということが書かれてたくらいか。因みに生涯盗塁は20個である。

選手生活も晩年になっても、康雄さんは98年に36歳で30ホームランを打ち、健在振りを見せ付けた。その後も本数は少なくなりつつも何度となく独特の「美しい」ホームランを見せてくれた。昨年でも、東京ドームで大差が付いた試合でいかにもファンサービスという形で代打で登場、ライトに3ランを打ったのを見ているし、秋の神戸での近鉄戦では3点差で大塚から2ランを打ち、3塁側で近鉄を応援していたのに大絶叫してしまったということもあった。しかしホームランはそこそこ出ていながらも、昨年は打率が2割を割ってしまうなどの不安材料も見うけられた。「その日」がやってきてしまうのか。

そして2002年。石毛監督になり社会人野球の後輩(現実には先述したように入れ違い)ということで怒られ役となり、明らかに実力が劣る選手がレギュラー組として呑気に練習する中若手に混じって汗を流し、シーズンが始まれば低迷する打線の中でもベンチを温める日々。しかし正直なところ今年に入って自らも語っているように、今までのようにホームランを見ることができる期待感が徐々に少なくなってきたと素人目でも感じられたのもまた事実である。昨年までであれば仰木監督に「康雄さん代打で出せ」「康雄さん代えるな」としょっちゅう野次っていたのに、今年の康雄さんのバッティングを見ると石毛監督にそれだけは強く野次ることはできなかった(他で散々野次ってはいるが)。そしてとうとうオールスター後には2軍落ち。さすがにサーパスでは実力の違いを見せ付けホームランを連発したものの一軍に復帰したのは1ヶ月半も後。結局、康雄さんの一発は4月以降見ることはできなかった

あらためて康雄さんの魅力とはなんだろうか。もちろん野球選手としてのものもあるだろうか、一方では人間的な魅力もあろう。例えば康雄さんはサインを基本的には絶対に断らない。これはある意味プロとして当たり前のことではあるが、素晴らしいと思うのだ。かつては福本豊さんがそうであった(福さんの場合は「サインもらったら礼を言わなあかん」という躾付き)。私もナゴヤで本西のサインのしてある阪急帽子を差し出たのだが、嫌な顔ひとつせずそのとなりにサインをいただいたくらいだ。そしてこんなエピソードもある。これは、私の会社の一年先輩の方からいただいたものである。

あれは、確か私が三回生になる前の冬だったか。(康雄さんが、初めて20本以上打ったシーズンオフだったと思います。=やまちゃん注:88年ですな)
プロ野球ニュース(関テレ)の取材で来られました。私の大学が、冬場にユニークなトレーニング法を取り入れているということで、レポーター役で来られました。ジーンズ・トレーナー姿に、スニーカーという、非常にラフな姿。
取材終了後、「じゃあ少しだけ・・・」ということで、スニーカーのままゲージに。バッティングマシーン相手でしたが、引っ張った打球が、ライトのはるか上。流し打った打球も、我が右打者陣が引っ張ってもなかなか届かないところへ、すさまじいスピードで伸びること伸びること。
同じグラウンドを使っていた、サッカー部員もラグビー部員もその場でしばらくあんぐり。「今、打ってたのは誰なんだ。。。」状態でした。
その時、私はグラウンドの外(レフトフェンス裏)で、投手の走り込み練習として坂道ダッシュを繰り返しておりましたので、ピッチャーとしてすら、いや野球部員としてすら認識されていなかったかも知れません。しかしながら、取材から引き上げられる際にこちらから挨拶すると、笑顔で会釈をして下さり、非常に礼儀正しい紳士な方だなぁという印象でありました

いわゆる一流選手の中で、プロ入り初打席と最終打席を見届けたのは康雄さんが最初で最後かもしれない。その意味では、康雄さんの引退は自分の中で1つの区切りであるといえるかもしれない(でも来年もまた、野球を見まくってしまうと思うのだが)。
康雄さんは来年からサーパスの打撃コーチに就任するという。藤井二世は無理かもしれないが何とかその域に近づけるような選手を何人も育てて欲しい。
長い間お疲れ様でした。

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